/* この作品はカンロ×pixiv 空想果実小説コンテスト 〜雲海に潜む未知の果実『フワレム』の物語〜に応募されています。 */
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「カンダーさん、所長がお呼びです。応接室へ」
そこに立っていたのは癖っぽい赤毛の女性で、機械油の染みもないよく手入れされた紺色のデイドレスを着ているところを見れば、きっと秘書室所属の新人だろうというのは分かったが、エルナはまだ名前を覚えていなかった。
そんな彼女はエルナが「あぁ、えぇと……」と言葉に詰まるのを見て、「先月から秘書室に入りました、フェルナーです」と言って小さく礼をする。普段は操縦席や機関室が仕事場の従業員ばかりだから、お互いに顔さえ知らないのも珍しくないし、輸送技師として貨物室を駆け回るエルナもその例に漏れなかった。
「フェルナーさん、ありがとうございます。それで、応接室ですって? あたし、またなんかやっちゃいました?」
「いえ、私の方では用件まで伺っておらず……すみません。しかし、かなりお急ぎのようでした」
「あの部屋、キラキラしてて苦手なんだよなー……ま、いいや。すぐ行きますね!」
日誌の所見欄に「寒すぎる冬のバッテリーの安定性について」と書きかけていたエルナは、何度かペン先を遊ばせて「んー……」と呟いたのち、「※ブレンナーさんの緊急招集にて今日は中断!」と書き添えて席を立った。普段なら執務室のソファに従業員を集めてスケジュールや雑談で賑やかにしている所長が、わざわざ離れた応接室に呼び出したとなると、いいニュースではない気がする。
エルナにも心当たりがないわけではなかった――この前、郵便輸送が濃霧で遅れた件? それとも、輸送中に正体不明の宝石が爆発した件? 確かに、あたしが気を付けてればなんとかなったかもしれないけど……まさか、クビなんて言われないよね?
彼女は足取りが重いままひんやりとした廊下を進んで、応接室の前で小さく息を吸った。スズランとヤドリギの細やかな彫刻が施された黒いドアをノックすると、堅く締まったオーク材の重い音が響く。しかし、しばらく待っても中から返事はない。さらにもう一度ノックすると、今度は勢いよくドアが開いた。
「すみません……って、マルセル? オスカーさんも。何でここに?」
「仕事の話に決まってるだろう。いや、エルナは初めてだったか……特殊輸送のブリーフィングだよ」
「オレも初めてっす!」
「おぉ、エルン。早かったね。座って待っててくれるかい? 資料の準備がまだでね」
「あ……はい、ブレンナーさん」
所長室に繋がる内扉から顔を出したワークジャケット姿の大柄な男は、野太い声でそう伝えるとまた所長室に戻った。ヨアヒム・ブレンナーは、このセイザン空運の 社長 である。彼は仰々しく「社長」と呼ばれるのを嫌がっていた。地元のパイロットや機関士を集めて小さな飛行場を開いたときから、定期輸送を担う大きな会社になった今でも、ずっと所長と名乗り続けている。
エルナが応接室を見回す。海外から取り寄せたキャメルヘアの絨毯が敷かれた空間には、天井からアンティークのシャンデリアが吊られており、その下には大きなソファとどっしりした一枚板のテーブルが横たわる。壁には額に入った写真が飾られてシェードランプで照らされていた。小さな整備場を背に、若き日のヨアヒムとパイロットたちが並んだ写真である。
彼女がこの部屋に呼び出される機会といえば、勤務初日のあいさつと、輸送事故の調査か評価面談のときくらいだ。エルナは部屋を彩る調度品がいかに高級なものかは聞かされていたが、彼女にはあまり興味のないことだったし、オイルで汚れたボイラースーツで立ち入るのも居心地が悪かった。
そんな高級なソファにエルナと同じような作業着姿で座っているのは、パイロットのオスカー・ベルクと、機関士のマルセル・グレイヴである。オスカーは飛行場の創業から運行を担う物静かなベテランのパイロットで、機関士校出身の溌剌としたマルセルとは対照的な印象を受ける。どうやらオスカーのいう「特殊輸送」は、この三人で担うものらしい。
「いや、待たせてすまないね。オズ、マルス、エルン。キミたちには、ある特別な果物の輸送を担当してもらいたい」
そう言って、ヨアヒムは赤いペンで輸送計画を書き込んだ航空図と、数枚の羊皮紙の束をテーブルに置いた。表紙には「
「ヨアヒム、俺は構わんが……こいつらは、まだ特殊輸送を任せるには若すぎるんじゃないか?」
「そうかもしれんな。だが、今回は経験を積むのにちょうどいい仕事なんだ。簡単に言えば……失敗してもいい輸送、ってとこだ。昔あっただろう? えーと……」
「あぁ、パヴロヴァの高速輸送か? あれは大成功だったなぁ。へぇ……ははっ、そりゃ面白い!」
「つまり、なんだ……プロの我々がどれだけ入念に準備しても、確実な成功は一切約束できない、とにかく難しい仕事でね。どうだい? やるかい?」
二人が顔を見合わせる。パヴロヴァというのは、焼き上げたメレンゲに生クリームを詰めた菓子である。今となってはケーキの輸送くらい一般的な業務に思えるが、かつては新鮮なケーキを形を崩さないまま運ぶ技術が研究されていた、と聞いたことがあった。
空輸業界での経験は二人とも十年ほど、セイザン空運ではエルナがわずかに先輩だったが、ヨアヒムとオスカーはかれらとは比べものにならないほどの深く長い歴史を目の当たりにしてきたのである。
「二人とも、そろそろ出発の時間だ。準備はいいか?」
「もちろん! 日が昇る前に早く出発しないと。『天使の実』が蒸発しちゃうんでしょ?」
「こっちもだいたい大丈夫っす。低温で回転数を上げるのにちょい時間かかりそうっすね……外マジ寒いっすよ」
マルセルが身体を震わせるのも無理はない。かれらがセイザンから社用の軽飛行機で数時間かけてやって来たのは、寒冷地方の険しい山岳地帯であるブルーナイフだった。真夏でも霧が晴れない特異な気候から観光地としても有名だが、飛行機が降り立ったのはその濃霧地帯の中心部である。
なぜかれらが真冬にこんな山岳地帯の奥地に来ているのか。それはもちろん、特殊輸送の荷物である「天使に口づけされた果実」を運ぶためだ。小さな貨物室は大半が耐圧の特殊な鉄製コンテナで占められていて、中には十個ほどの「天使の実」が入っているらしい。らしい、というのは、かれらがこの格納庫に辿り着いて指示のままに飛行機に乗り込んだ時点で、既にこのコンテナが載っていたからだ。
コンテナには、開放厳禁と五カ国語で大きく書かれたラベルが貼られ、ドイツ製の頑丈な南京錠がかけられている。エルナは全面の分厚いサイトグラスから中の様子を伺おうとしたが、内側が曇っていて何も見えない。「天使の実」の資料には、低温・高湿・低圧が輸送の三条件と書かれていた。バルブに付いた計器の値を見て、雲を通り抜けるときの空気と同じだと、エルナが呟く。
かれらをこの飛行機に案内したスタッフ――研究員と名乗っていた――によれば、靄が晴れて中が見えるようになったら全滅の証拠だ、という。全滅したらすぐに引き返してかまいませんから、という口調から察するに、かれは端から輸送に成功するとは思っていないようだった。
しかし……ここから、フェルデのターミナルまで五時間弱。そこから鉄道で山を越えて、依頼主であるロゼ家の邸宅に着くのが夕方……と、工程だけを見れば、いつもの都市間定期輸送と変わらない。この輸送計画のどこに落とし穴があるのだろう。ヨアヒムにあそこまで難しいと言わせる「特殊輸送」がどんなものか、エルナは少し不安だった。
「オスカーさん、N1スラスト問題ないっす!」
「オーケー。スラストセット……エイティ・ノット……V1……VR……V2――ポジティブ!」
それでも、仕事はやってくる。オスカーの合図で、「天使の実」を載せた機体が目的地へと飛び立った。
ブルーナイフを離れると、あれだけ視界を覆っていた濃霧がすっかり晴れて、夜明け前の淡い瑠璃色の空が現れた。エルナが注意深く計器の値を見つめる。ほんのわずか気圧が上がり、湿度が下がった。これまでドラムにほぼまっすぐな線を引き続けていた自記記録計の腕が小さく動いて、赤く塗られたラインの側に近づく。研究員がいう低温・高湿・低圧の三条件を保てる環境の境界線ということだろう。
耐圧コンテナからは数本のエアチューブが伸びている。ゴム製の分厚い管に銅の編組が巻き付けられた耐久性の高いチューブに、カタログでしか見たことのないような産業用の冷却装置や減圧器、それに加えて最新型のレギュレータが備えられているのを見て、エルナは驚いていた。こんなしっかりしたコンテナで冷却と減圧を繰り返しても、「天使の実」はせいぜい十二時間ほどしか保存できないらしい。
「エルナさん、大丈夫っすか?」
「あ、うん……大丈夫。でも、この飛行機、いちいち設備が高級すぎて……マルセルもそう思わない?」
「そうっすよね。主翼の
「お金持ち、ねぇ……まぁ、あの大商会のロゼ家だし、それはそうなんだろうけど。なーんか引っかかるのよね」
エルナがまたコンテナを覗き込む。中の靄がわずかに晴れて、ぼんやりと赤くて丸い塊の姿が見えた気がした。まるで危篤の入院患者のように全身にチューブを繋がれて、刻一刻と変わりゆく温度と気圧に目を向けないと、いつの間にか蒸発してしまう。その上、あたしたちはこの小さなサイトグラス越しにしか状態を確認できないなんて、確かに普段の仕事とは全く違っていた。
とある研究所が雲の中でその果実を発見してから、市場に流通するようになるまでの十数年の間、秘密裏に「天使に口づけされた果実」と呼ばれていた貴重な植物――今ではフワレムという名前でよく知られているが、この時点でロゼ家の「天使降臨計画」を把握しているのは、限られたほんの数人だけだった。世界初の輸送の試みに従事するかれらでさえ、その姿を見ることは許されなかったのだ。
ブルーナイフを発って二時間ほど。計器の監視と減圧器の調整を繰り返す。外から見れば退屈な作業に感じるが、エルナは自分が担当する荷物に向き合うのが好きだった。その来歴や特徴を今の条件と照らして、最適な状態で輸送工程を管理する。昔から飛行機が好きだった彼女にとっては、比較的女性の多い輸送技師を目指すのがほぼ唯一の道だった。
エルナがサイトグラスを覗き込む。さっきより窓の靄が強くなっていて、今度はその赤い輪郭さえも見えない。生きてるみたいだ、と思った。雲の中で生まれたという「天使の実」の話を聞いて、彼女は自由に空を飛び回る羽根の付いた果実を想像した。遠い南国では、空を飛んで種を広げる果物の伝承があった気がする――
「おっと、少し気圧が……でも、減圧器のポンプは最大だし、温度をちょっと上げて空気を追い出せば自然に下がるはず……」
プシッ、とコンテナの調整弁から霧が吹き出す。その霧からは甘酸っぱい香りが漂って、エルナは密かに喉を鳴らした。自分では直接見ることもできない特別な果物。依頼主はこの「天使の実」をどう食べるんだろう。こんなにお金と人手をかけてまで食べたい果物なのだから、よほど美味に違いない。
エルナはその香りを味わいながら気圧の変化を見守っていたが、その果実の芳香がかき消えてもなお、一瞬だけわずかに下がった気圧はまた徐々に上がり始めた。じわじわと上限に近づく気圧の記録を見ながら、何度か減圧器のバルブを操作してみたが、針の動きは全く変わらない。
サイトグラスを覗き込む。うっすらとした赤い輪郭と一緒に、表面のペールイエローのつやまでが彼女の目に届いていた。
緊急事態だった。
「……ちょっと、マルセル。外気温と気圧を見てくれない?」
「ここ三十分ほど、変化なしっすね。気温はこれから上がるはずっすけど……なにかあったんすか?」
「さっきからコンテナの気圧の上がり方が激しくて、そろそろ危険域なのよ。外気温の影響があるか、も……って」
そこまで言ったあたりで、エルナがやっと減圧器の異常に気付く。オレンジ色のランプが点灯して、バッテリー電圧の低下を示していたのだ。当たり前だ。これでは減圧機能はほとんど使えない。いつもならすぐ気付くはずなのに……と、エルナは大きく息を吸って自分の頬を叩いた。
「ごめん。バッテリーが切れてたみたい。でも……予備のバッテリーなんてなかったよね」
「あー……なるほどっす。これ、どうしたらいいっすかね……オスカーさん! 非常用のバッテリーとかないっすか?」
「視覚信号と無線用の小さなものはあるが……せいぜい三十分くらいの延命にしかならんだろう。たぶん、安全域を削ってでも積載を減らしたかったんだろうな」
「そう、なんですね……」
機内に重い沈黙が流れる。出発したときは確かにバッテリーは100%を示していたはずだけど、そんなことを言い張っても意味がない。きっと、ブルーナイフの安定した環境での動作より負荷がかかるのだ。予備バッテリーを持ってこなかったのはあたしの責任だ。でも、そんなことを言い出して謝っても、やっぱり意味がない。
「『天使の実』の全滅を確認したら引き返す。依頼主との合意は変わらないんだ。別に、エルナだけの責任じゃないさ」
「そ、そうっすよ! ブレンナーさんもダメ元って言ってたじゃないっすか。だからエルナさん、そんなヘコんだ顔しないでほしいっす」
「あ、あたし別にそんな顔……」
していない、とも言い切れない。こみあげる涙にエルナの思考が流されて、諦めに向かって逃げていく。泣きたくはなかった。
今の彼女にできることは、減圧器の操作とバルブの調整くらいだ。バッテリーさえあればどうにかなったはずだけど、上空二千メートルでは何もできない。やっぱり、諦めて引き返すしか……と、頭を抱えて外を見つめるエルナの目に、ずっと遠くまで広がる波打つ雲が映る。「天使の実」のふるさと……かれらが自由に飛び回る自然――
「……そうだ! 今から雲に入るのはどう? 新鮮な雲をコンテナに取り込めれば、どうにか地上まで耐えられるかも」
「エルナ、お前はいつもそうやって無茶ばかり……マルセル、
「あー、三十分くらいなら余裕っす! エンジンもほぼ新品だし、ウチの機体よりよっぽど丈夫っすよコイツ」
元気よく返事するマルセルの勢いに、オスカーは若き日の自分を重ねていた。初めて任されたパヴロヴァの高速輸送を思い出すと、自分が何でもできると思っていたあの頃の情熱が戻ってくる。
「そうか。ここから三千メートル上昇するのに十五分……ギリギリだな。上層雲を数十秒で通り抜けて、『天使の実』に雲の冷気を取り込む……チャンスは一回だけ。エルナ、それでいいか?」
「ありがとう! すぐ準備するわ! マルセルもバルブの調整手伝ってね」
「……しかし、本当に大丈夫なんだろうな。いくら丈夫って言っても、
そう落ち着いた様子で呟くオスカーだったが、その鼓動は徐々に高鳴っていた。この設計の機体で五千メートルまで上昇するのは、失速の危険を伴うギリギリの飛行である。彼ほどのベテランであっても、確実な成功は一切約束できない、ということだ。
「マルセルー! 予備のチラーを持ってきて。外に繋ぐエアチューブもお願い」
「はいはーい。今行くっすよー」
「慌ただしくなってきたな。よし、俺ももう一踏ん張りしないと……!」
オスカーが操縦桿を握る力が強くなる。グッ……と機首が急上昇するのに合わせて、三人の身体が強い重力で引かれる。そうそう、全身で飛行機を受け止めるこの感じだ……二人に気付かれないように目を輝かせる若き日のオスカーが、ぐんぐんと雲に向かって加速していく。
その間、エルナとマルセルは緊急用の吸排気口にエアチューブを伸ばして、「天使の実」のコンテナに雲を取り込む準備を進めていた。飛行機のハッチとエアチューブのバルブを開ければ、耐圧コンテナ内部が雲と同じ環境になるはずだ。吸気と排気を同時に開始して、同時に完了する。気圧変化を抑えるには、二人の息を合わせる必要があった。
「エルナ! マルセル! もうじき雲に突っ込むぞ」
「はい! マルセル、まずはバルブを開いて。バルブ、オープン」
「バルブ、オープン」
「じゃあ、次は……ハッチ開放まで、3、2、1……」
「「ハッチ、オープン」」
シュン……と小さな音を立てて、気圧計の針が大きく下がる。二人はハッチに手をかけたまま、温度と湿度も理想圏まで近づくのを見守った。コンテナ内がすっかり雲の空気と入れ替わったのを見て、二人はまた「「ハッチ、クローズ」」とコンテナを雲から切り離した。
「エンジンの推進力が下がってる……おい、もう降りていいか!」
「気圧……回復しました! 温湿度も十分です!」
「よし、作戦終了だ!」
雲の底をかすめた機体が、再び地上に向かって降下し始める。フェルデへの到着まではあと三時間ほどという状況だ。
無事にフェルデまで到着した三人は、駅で待機していたロゼ家の使用人に「天使の実」が入った耐圧コンテナを引き渡した。機体への給油と冷却装置や減圧器のバッテリーを交換して、オスカーとマルセルの仕事はここで終わりである。ここからは、エルナが一人で輸送中のコンテナを監視することになっていた。
「『天使の実』、一口くらいもらえるといいっすね!」
「こんな貴重な果物、ただの輸送係に分けてもらえるわけないでしょ?」
「ははっ、エルナならやりかねんな。ほら、会社に戻るぞマルセル」
「了解っす。じゃ……エルナさん、頑張ってくださいっす!」
二人と別れたエルナは、使用人と共にコンテナを引いてプラットホームに向かう。飛行機が専門のかれらと違って、彼女の仕事場は鉄道輸送の現場にもあった。どうやら貨物車を一台丸ごと借りているらしく、空っぽの車両にコンテナを積み込むと、やっと数人が乗り込める程度の隙間しか残らない。
フェルデからロゼ家の邸宅があるヴァルモンまで、また大きな山岳地帯を越えていく。ブルーナイフほどではなかったが、この季節ならコンテナに余計な負荷を与えずに運べるだろう。
「あなた、セイザン空運の輸送技師ですわよね。随分と遅いんでなくって?」
エルナが貨物車を降りて周囲を見回していると、落ち着いた臙脂色のカシミヤコートを羽織り、大きなボンネットハットを被った若い女性が現れる。ロゼ家の娘だろう。さっきの使用人がエルナの到着を伝えたらしい。
「えぇ。カンダーといいます。その……空輸中に少しトラブルがありまして」
「言い訳は聞きたくありませんわ。出発時刻ギリギリなんですから、早く貨物車にお乗りなさいな」
エルナはその口調にむっとしたが、到着予定時刻から遅れてしまったのは確かだ。彼女は返事もせず、黙ったまま貨物車に乗り込んだ。別に今日からここで働くわけでもないし、これくらいの客なら普段の仕事でも慣れっこだ……と思っていると、彼女の後ろをついてロゼ家の娘が乗り込んできた。
貨物車の扉を閉めると、中を照らすのは鎧戸から漏れるわずかな光だけになる。彼女は工具箱から作業用のハリケーンランタンを取り出して、さっと火をつけた。
薄暗い貨物車の中で、彼女は耐圧コンテナの様子をぐるりと見回す。興味深そうに自記記録計の動きを追ったり、減圧器の計器をなぞって「ふむふむ」と小さく頷いた。それから、サイトグラスに顔を近づけてコンテナを覗き込む。
「カンダーさん。中の様子が見えないようですけれど、問題ございませんの?」
「内部で雲の内部に近い環境を保っておりますので。むしろ健康な状態なんですよ」
「そう。それならよろしいですけれど。この機械、なんだか賑やかで耳が休まりませんわね」
「減圧器ですか? コンテナの維持には必須でして……すみません」
前言撤回。貨物室に乗り込んできて文句を言う客は初めてかもしれない。朝からずっと減圧器や冷却装置の作動音を聞いていたから、エルナにとってはうるさいと思う瞬間すらなかった。
「その……輸送はこちらに任せていただいてかまいませんよ。一人でも問題ございませんので」
「わたくしに見られていると、何か困ることでも?」
「そういうわけではございません。ただ、この貨物車にはストーブもありませんし……それに、ロゼ様にはお狭いかと」
「あら、わたくしみたいな小娘では、ちょっとした寒さや狭さにも耐えられないとおっしゃるのね」
「その……すみません」
「……冗談ですわ」
エルナは「そうでしたか」と答えたが、ロゼは黙ったままだ。ばつの悪い気持ちのままその場に座り込むと、ロゼもハンカチを敷いてその場に座った。エルナが計器をじっと見つめているうちに、とうとうヴァルモン行きの列車が出発する。もうロゼが客車に戻れないと分かって、エルナは小さく溜息をついた。
薄暗い空間の中で沈黙が流れる。その隙間を埋めるように、列車が揺れる音と減圧器のポンプの音がよく響く。計器の動きに合わせて、冷却器を少し弱める。お嬢様の相手は依頼内容にはなかったし、気にしなくてもいいだろう……と思ってエルナがあれこれ作業を続けていると、しばらく黙っていたロゼが急に口を開いた。
「わたくし、リゼットです。リゼット・ド・ロゼ。ロゼ商会の現会長、アルマン・ド・ロゼの一人娘ですわ」
「えぇと、はい。短い旅になりますが、よろしくお願いいたします。リゼット嬢」
「……お名前は?」「はい?」「だから、あなたのお名前。なんとおっしゃるの?」
「あぁ……エルナです。エルナ・カンダーといいます」
「あら、エルナ! いい響きの名前ですわね」
急な自己紹介に面食らったエルナだったが、名前を聞き出そうとして自分から名乗ったのだと気付いて、急に力が抜ける。名前くらい素直に聞けばいいのに、と思うと、エルナはなんだかリゼットに親しみが湧いていた。もしかしたら、気負わず話せる歳の近い友達がいないかもしれない。
エルナがコンテナから視線を離してリゼットに向き直る。ランプに照らされた薄暗い彼女の顔は、初めて会ったときよりも柔らかくほころんでいた。
「エルナさん、あなた輸送技師なのよね。どうしてこの仕事をしていらっしゃるのかしら?」
「飛行機が好きだったんです。だから、飛行機に乗る仕事がしたくて」
「あら、そうなんですのね。操縦士はお志しになられませんでしたの?」
「もちろん、子供の頃は憧れてましたけど……女が飛行機で働くには、このルートが定番なんですよ」
「まぁ、そんなことありませんわよ。フワレムの輸送を任されるくらい優秀な技師なんですもの。操縦士の道だってすぐに開けるに決まっておりますわ」
別に、輸送技師を目指したことを後悔しているわけじゃない。確かに子供の頃は自分の操縦で自由に空を飛び回るのに憧れていたけど、子供の頃の夢が叶わないのなんてありふれたことだ。男だって、女だって――しかし、それよりも気になることがあった。リゼットの「フワレム」という言葉に思考を追い出されて、エルナは思わず聞き返す。
「……フワレム?」
「あら、知らなかったのかしら? フワレム……この果物の名前ですわ。
「あぁ、それならここに……」
エルナが会社で渡された羊皮紙の資料を取り出して、ランプの下で表紙の文字をそっとなぞる。三人が飛行機の中で「天使の実」と呼んでいた果物のことだ。
「そう。あなたが運んでいる果物は、フワレムと申しますのよ。きっと覚えておいて。数年後に必ず……びっくりするはずですわ」
「……なかなか出発しませんね」
フワレムが入ったコンテナを載せたヴァルモン行きの列車は山頂近くまで順調に進んでいたが、途中のモンセル駅に停車したまま十五分ほどが経っていた。この山を越えればセイザン空運の特殊輸送はほぼ完了という目前のところで、フワレムの寿命が徐々に終わりに近づいていた。
「何かあったのかしら? ちょっと見てきますわね」
「危ないですよ。それでしたら私が……」
「エルナはフワレムを見るのが仕事でしょう? ここで待っていらして!」
そう言って、リゼットが勢いよく貨物車の扉を開ける。彼女たちの目の前には、数メートル先も見通せないほどの濃霧が広がっていた。エルナも立ち上がって貨物車から身を乗り出すと、思わず「あぁ、そんな……」と呟いた。
「わたくし、車掌に早く出発するよう直接お話ししてまいりますわ」
「あ……ちょ、ちょっと! リゼット嬢!」
制止も虚しく、貨物車から飛び降りたリゼットが車掌車に駆けていった。おてんばなお嬢様の後ろ姿はすぐに霧の中に消え去って、エルナの溜息だけが残った。
車両に戻ったエルナが、自記記録計の変化を眺める。温度と湿度はわずかな揺れを示しながらも、ほぼ横ばいで進んでいた。山頂近くで停車したのは不幸中の幸いというところだろう。実際、鎧戸から漏れる空気は重くひんやりとしていて、フワレムの保管に向くというブルーナイフに似ていた。
しかし、問題は気圧だった。特製の耐圧コンテナとはいえ、この大きな箱を完全に密閉できるわけではない。減圧器で圧力の上昇をある程度抑えることはできても、最後には危険域を迎えてしまう。このまま霧が晴れるまで運行が止まっていれば、遅かれ早かれフワレムは寿命を迎えてしまう。
「せめて、また雲に突っ込めれば……」
実は、飛行機での輸送中にエルナが見つけたフワレムに雲を取り込んで安定させる方法は、後に最初期のフワレムの安定輸送で非常に役立つことになる。もちろん今の彼女はそんなことを知る由もないし、いずれにしても鉄道輸送では無力だった。
そわそわと歩き回って減圧する策を考えているうちに、リゼットがとぼとぼと弱々しい歩みで戻ってきた。
「エルナ……あの車掌ったら、今日はここで運行を中止すると言って聞きませんの。どうか、お許しになって」
「大丈夫ですよ、リゼット嬢。危ないですから、早く貨物車に戻ってください」
貨物車のはしごに脚をかけるリゼットに、エルナが手を差し伸べる。「よろしくってよ」と彼女の手をぐっと引いて中に戻る。扉を閉めると、また小さく薄暗い闇に包まれた。
「念のため、駅の電報を借りて迎えの者を呼びましたの。列車が動かなくても、なんとか間に合うかしら?」
「いえ……どれだけ条件が良くても、あと数時間で気圧が上がりきってしまいます。この霧を抜ければ、温度や湿度も安定していられないでしょうし」
「つまり……全滅、ということでございますの?」
「……えぇ。このままでは、確実に蒸発してしまいます」
「まぁ、なんてこと! エルナは優秀な輸送技師なのでしょう? なんとかなりませんの?」
優秀な輸送技師。リゼットの言葉がエルナに突き刺さる。彼女は本当にエルナを信じてそう言っているはずだが、一度はフワレムの輸送を失敗しかけたエルナにとっては重圧でしかない。
リゼットの視線に応えるように、意味はないと分かりつつも減圧器の出力を上げる。先ほどまでのようにバッテリーが急速に減ることはなかったが、気圧が下降するわけでもない。エルナは徐々に気圧が下がりにくくなっている現象には気付いていたが、その原因はまだ見当も付かなかった。
鎧戸の隙間から外を覗き込むと、徐々に霧が晴れていくのが目に入る。
こんなの普段の仕事と変わらない、たった十時間ほどの輸送だと思っていた自分が嫌になる。あのぼんやりとした不安を放置したままブルーナイフを出発した自分が嫌になる。ブルーナイフから氷の塊を持ち出してくれば、このコンテナを冷やして圧力を下げられたかもしれない。
でも、もう手遅れだ。
「まだやれる、こと……」
「そうですわ。まだできることが――」
「まだやれることなんて……もう、ありませんよ。もう、無理なんです!」
そう叫ぶエルナを、リゼットが驚いた顔で見つめる。あー……あたし、また泣いてるんだ。やだなぁ。薄暗い貨物車の空気に隠れるように、エルナはリゼットから逃げるように後ろを向く。あたしなんて、自由に空を飛ぶことばかり考えてるだけで、なんにも上手く――
「エルナ……わたくしはあなたのこれまでの励み、重々承知しているつもりですわ。これほど熟練の輸送技師の手を煩わせる荷物なのですから、これ以上は無駄な足掻きというものでしょう」
「しかし、それではフワレムが……」
立ち上がったリゼットが、振り向いてそう言いかけたエルナの手を引く。そして、不敵な笑みを浮かべながら、エルナの顔を見上げてこう宣言した。
「えぇ、ですから……フワレムの輸送計画は、わたくしの名の下で破棄いたしますわ。ここにある一切の荷物は、もうロゼ家に届ける必要はございません」
リゼットは懐からロゼ家の野薔薇と蝋燭の紋章が刻まれた鍵を取り出して、コンテナを開けるように言った。ブルーナイフで厳重に保管されている鍵と、リゼットが肌身離さず持ち歩く鍵。フワレムの全てを握る権利が彼女の手の中にあった。
「リゼット嬢……本当にここで食べるんですか? フワレムを」
「あら、このまま蒸発するのを待てとおっしゃるの? 大変希少な果実でございますのに」
「それは……そうですが」
「では、これならどうかしら。輸送技師の目線から見て、放っておけば朽ち果てるのを待つばかりの果実……いったいどのように扱うとよろしくて?」
輸送技師の目線、だなんて。澄ました顔でエルナにそう尋ねるリゼットが、言いよどむエルナの答えを待たずに「冗談ですわ」と笑ってみせると、エルナが「面白くないです」「あら、面白いわ」「緊急事態なんですよ?」「じゃあ、エルナは食べたくないとおっしゃるの?」「……食べますけど」と返した。
リゼットは一拍おいて、またエルナに語りかける。
「エルナ。わたくし、この『フワレム』は生きていると……そう思うのです」
「そう……ですね。私も、雲の中を自由に飛び回っていたんじゃないかって、思ってました」
「ですから、今日は空に帰りたいと……そう言っているのでしょう」
空へ帰りたい。この特殊輸送に必死になっていたときは思い至ることもなかった想像が、背中の荷が下りた今となってはしっくりきていた。呼吸するようにサイトグラスを曇らせるフワレムたちは、鉄のコンテナの中でどんな気持ちだったろう。それならせめて、残ったフワレムを食べてあげるのがせめてもの供養になるかもしれない。
「それに、将来ロゼ商会の看板商品になるやもしれない果物を玩味するのも、重要な仕事でなくって?」
「……売り払うんですか、フワレムを」
「まぁ、そんな乱暴に言わないでちょうだい。ロゼ商会では、このフワレムを地上で栽培する計画を進めておりますのよ」
「栽培ですって?」
「そうですわ。天使降臨計画。天使の果実を、人間の手に収める壮大な計画……その第一歩が、今ここにございますのよ」
つまり、雲の中に飛行機を飛ばしてフワレムを採集したり、遠い寒冷地の山奥に保管して輸送する手間をすっ飛ばして、安価にフワレムを流通させようというわけだ。フワレムを地面に植える種だとすれば、確かに今ここがまさに第一歩である。農産物の加工やら輸出入まで手広く担っているロゼ商会らしい着眼点だ。
エルナは早朝からここまで自らが運んできたコンテナと、その壮大な計画が交わるその瞬間に、思わず息を呑んだ。
「この子たちはきっと、まだ空にいたいと願ったのでしょう。でも、次はきっと首尾よく持ち帰れますわ」
「地上に来たいフワレムなんて……いるんでしょうか」
「だって、エルナも空に憧れているんでしょう? それなら……地上に憧れるフワレムも、きっといるはずですわ」
ただのこじつけだ、とエルナは思った。でも、ロゼ家なら……リゼットならきっと、やると言い切ったことはやってのけるのだろう。エルナはほぅ、と小さく息を漏らして、リゼットの顔を見つめた。
「さぁ、このような冴えないお話はおしまいにいたしましょう。コンテナの操作はお任せしてよろしくって?」
「え、えぇ……では、開けますね」
エルナがバルブに手を伸ばす。湿度がちょっと下がったくらいで、気圧がちょっと上がったくらいで一喜一憂していた一日が、これで終わる。フワレムに雲を与えたまま地上に輸送するためのコンテナが、今はもうフワレムを閉じ込める牢屋にしか見えなかった。
「レギュレータ……ロックアウト。冷却装置……ロックアウト。減圧器……ロックアウト。残圧除去……よし。あとは、コンテナの調整弁を開放すれば、コンテナを開けられます」
エルナがコンテナに繋がる全ての機器の電源を落とすと、貨物車の中にいきなり静寂が訪れる。山の中で止まってしまった列車には、わずかな風の音しか流れない。
「えぇ、お願い」
リゼットの返事に合わせてバルブを開く。大きな音を立てて白い霧が吹き出して、狭い貨物車に甘酸っぱい匂いが充満していく。他のどんな果物より甘いような、しかし爽やかな酸味も抜けていくような強烈な香りに、二人は顔を見合わせた。身体がとろける心地がして、腕が重い。飛行機の中でエルナが喉を鳴らしたあの香りが、もっと近くに迫っていた。
エルナが貨物車の扉を開ける。フワレムがまとっていた空気が外へ逃げていくと、強い香りでぼんやりとした頭にはっきりと意識が戻ってくるのが分かった。もう霧はほとんど晴れていて、山の向こうには青空と混ざった淡いピンク色のヴィーナスベルトが見えていた。
あそこに、フワレムのふるさとがあるんだろうか。
「リゼット嬢、鍵を」「分かりましたわ」
リゼットが差し込んだ鍵を回すと、大きな南京錠が小気味よい音を響かせてつるが外れる。扉にかかったラッチを外すと、滑るようにコンテナが口を開いた。
エルナが中を覗き込む。コンテナの中に十個ほど並べられていたはずのフワレムは、その仰々しい銀製の台座を残してそのほとんどが姿を消していた。そして、中央に残ったただ一つの果実だけが、今にも消え去ってしまいそうなペールイエローの果皮を空気に溶け込ませながら、彼女たちの前に横たわっている。
息を殺して台座を取り上げたエルナが、恭しくリゼットにフワレムを差し出す。手に載せたフワレムはまるで生きているように揺らめいて、剥いたそばから果皮がきらめいて空に向かって蒸発していく。手のひらが濡れているような感覚は、熱を奪いながら消えていく独特の結晶構造のせいだ。
フワレムの赤い果肉にかじりつく。ヴィーナスベルトに照らされた雲を集めたような食感と、冬の霜のように冷たく、太陽を集めた南国の果実のように甘く、人類が初めて出会った果実のように酸っぱいその味に、リゼットは「確かに、天使の果実ね」と言った。
ふと顔を上げたリゼットが、フワレムを見つめるエルナの視線に気付く。リゼットは愛おしそうに微笑むと、半分残ったフワレムをエルナの口に寄せてそっと放り込んだ。ヴィーナスベルトと赤い実の端が重なってきらりと輝いて、エルナの口の中にもあの甘く酸っぱい天使の味が広がっていく。列車はまだ出発しそうにない。
これが、地上で初めてフワレムを口にしたと語られる二人の顛末である。